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友達の子におもちゃを壊された。弁償してもらう?大事なのは金額じゃなかった

おもちゃと子育て

娘がまだ小さかった頃のことです。

遠方に住む祖母からもらったおもちゃを、娘はとても気に入っていました。

ものすごく高価なおもちゃだったわけではありません。

でも、娘にとっては大切なおもちゃでした。

誰にもらったのか。
どれだけ気に入っていたのか。
どんな思い出があるのか。

物の価値って、値段だけでは決まらないんですよね。

ある日、そのおもちゃをお友達と一緒に遊んでいて、壊れてしまいました。

わざとではありません。

子ども同士で遊んでいれば、事故は起きます。

頭では分かっています。

それでも、大切にしていたおもちゃが壊れて、娘が悲しんでいる姿を見ると、親としてはやっぱり胸が痛みます。

相手のお母さんも、すぐに謝ってくれました。

「本当にごめんなさい。弁償します」

そう言ってもらいました。

でも私は、

「大丈夫ですよ」

と答えました。

壊れてしまった物は、もう元には戻りません。

怒っても戻らない。

相手を責め続けても戻らない。

新品を買ってもらったとしても、それは娘が祖母からもらった「あのおもちゃ」ではありません。

だから私の中では、壊れた時点である程度、諦めがついていました。

仕方がない。

事故だったんだから。

でも、この出来事をきっかけに、私は少し考えるようになりました。

おもちゃを壊したときの「弁償」って、いったい何なんだろう?

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壊れた物は、もう元には戻らない

もし壊れたのが、本当にどうでもいいおもちゃだったら。

100円ショップで何となく買った物。

お菓子のおまけ。

もうほとんど遊んでいなかった物。

そんなおもちゃなら、

「本当に気にしないでください」

と、もっと簡単に言えると思います。

でも同じ2,000円のおもちゃでも、誰かにとっては全然違います。

おばあちゃんにもらった物かもしれない。

誕生日に初めて自分で選んだ物かもしれない。

もう会えない人からもらった物かもしれない。

毎晩一緒に寝ていたほど気に入っていた物かもしれない。

他人から見れば、ただのおもちゃです。

でも、その人にとっては、代わりのない物かもしれません。

お店には値段がついていても、その人にとっての価値には値札がついていません。

だから、

「2,000円のおもちゃなら2,000円払えば解決」

とは、私は思えなくなりました。

被害者側なら、私は壊れた時点で諦める

少し冷たい言い方に聞こえるかもしれません。

でも私は、壊された側なら、物については壊れた時点で諦めるしかないと思っています。

どれだけ怒っても元には戻りません。

大声で抗議しても戻りません。

相手を責めても戻りません。

修理できるなら直す。

買い直せるなら買い直す。

そのまま残したいなら、思い出として残す。

処分するしかないなら、処分する。

現実的には、それしかありません。

だから私が相手に求めるのは、物を完全に元通りにしてもらうことではないのだと思います。

では何を見るのか。

たぶん、その後の態度です。

本当に申し訳ないと思ってくれているのか。

自分の子が、人の大切な物を壊してしまったことを真剣に受け止めてくれているのか。

そこが伝われば、

「もう仕方ないよね」

と思えます。

反対に、

「子どものしたことですから」

「わざとじゃないので」

「そんなに高い物じゃないですよね」

そんな態度だったら。

おもちゃが壊れたことより、

「この人って、こういうときにこういう対応をする人なんだ」

ということの方が、私の中に残ると思います。

物は壊れた時点で諦めています。

でも、その人との付き合い方は、その後の対応で変わります。

「子どものしたことだから仕方ない」は、誰が言うのか

私は、子どもが失敗すること自体は仕方がないと思っています。

子どもですから、力加減を間違えることもあります。

夢中になって周りが見えなくなることもあります。

わざとではなくても、壊してしまうことはあります。

そこまでを完全に防ぐのは難しいです。

でも、

「子どものしたことだから仕方ない」

という言葉は、誰が言うかで意味がまったく変わります。

壊された側が、

「大丈夫ですよ。子どものしたことですから」

と言う。

これは、相手を許すための言葉です。

でも、壊した側の親が、

「子どものしたことなんだから仕方ないでしょう」

と言ったら。

私はたぶん、かなり腹が立つと思います。

「仕方ない」と決めるのは、壊した側ではない。

壊された側が、自分の中で折り合いをつけるために使う言葉なのだと思います。

では、自分の子が壊した側だったら?

ここから急に難しくなります。

反対に、自分の娘が友達のおもちゃを壊してしまったら。

相手のお母さんから、

「本当に大丈夫よ。気にしないで」

と言われたとします。

私は、その言葉を聞いて、

「よかった」

と安心して帰れるでしょうか。

たぶん無理です。

新品が買えるなら、

「同じ物を買わせてください」

と言うと思います。

修理できるなら修理したい。

もう売っていない物なら、その子が欲しい物を聞くかもしれません。

でも、そこでまた考えてしまいます。

相手が、

「大した物じゃないから」

と言ってくれても、本当にそうなのだろうか。

こちらに気を遣って言っているだけかもしれない。

誰かにもらった大切な物だったかもしれない。

ずっと気に入っていた物だったかもしれない。

本当にどうでもいい物だったのかもしれない。

こちらには分かりません。

だから難しいんです。

相手が、

「新しい物を買ってください」

と言ってくれた方が、むしろ楽なのかもしれません。

何をすればいいのか分かるからです。

でも、

「本当に何もいらないから」

と言われると、

「それで本当にいいのかな」

と考えてしまいます。

そして考えれば考えるほど、

もう元通りにはできない

というところに行き着きます。

だったら、自分にできることは何なのか。

私は結局、

心から謝るしかない

と思います。

新品が必要なら用意する。

修理できるなら修理する。

相手が望むことがあるなら、できる限り応える。

でも、それ以前に、

自分の子がしてしまったことについて、親として心から謝る。

それしかできません。

そして、そこまでしても許してもらえなかったなら。

そのときは、その結果も受け入れるしかないと思います。

「じゃあ今度、一緒に100均へ行ってあげて」

このことを考えていると、私はもう一つ思い出す出来事があります。

今度は、私の娘がお友達のおもちゃを壊してしまったときのことです。

私はもう、謝ることしかできませんでした。

壊れたおもちゃは、見たところ、もう二度と手に入らないような特別な物には見えませんでした。

でも、本当のところは分かりません。

その子にとって、どんなおもちゃだったのか。

誰かにもらった物なのか。

ずっと大切にしていた物なのか。

こちらには分からないからです。

私は何度も頭を下げました。

「本当にすみません。弁償させてください」

相手のお母さんは、

「大丈夫よ。そんなに大した物じゃないから」

と言ってくれました。

それでも私は、どうしてもそのまま帰る気にはなれませんでした。

「いえ、本当にすみません。何かさせてください」

そう言っていると、相手のお母さんが少し考えてから、こう言いました。

「じゃあ今度、うちの娘と一緒に買い物に行ってくれる? 何か欲しいおもちゃがあるんだって。駅前のダイソーなんだけど」

正直、少しホッとしました。

「それなら、ぜひ」

と思いました。

後日、私は娘とそのお友達を連れて、ダイソーへ行きました。

100円のおもちゃ一つでは、さすがに申し訳ない気がして、

「好きなだけ選んでいいよ」

と言いました。

でも、その子は棚を見ながら、

「これがいい」

と、一つだけ選びました。

私は娘の分と、お友達の分、色違いのおもちゃを二つずつ買いました。

その日は、そのまま二人で新しいおもちゃを広げて、一緒に遊んで過ごしました。

この出来事のあとになって、私はふと思ったんです。

あのとき、

「娘と一緒に買い物に行ってあげて」

とお願いしてくれたお母さんは、もしかしたら、私の気持ちまで考えてくれていたのかもしれない、と。

壊した側にいると、何をすればいいのか本当に分からなくなります。

お金を払えばいいのか。

新品を買えばいいのか。

何か別の物を渡せばいいのか。

相手から、

「こうしてほしい」

と言ってもらえた方が、責任の取り方はずっと分かりやすい。

もちろん、それだけですべて解決するわけではないと思います。

でも、

「私は何もできなかった」

という気持ちは、少し軽くなります。

あのお母さんは、何度も謝る私を見て、逆にこちらに気を遣ってくれたのだと思います。

そして、100円のおもちゃ一つで済ませたかったわけでもない。

たぶん、

「もう大丈夫だから」

と、私に伝える方法を作ってくれたのだと思います。

おかげで、その後も親子同士の付き合いが途切れることはありませんでした。

今でも、親子ともども仲のいい関係が続いています。

あのとき私は、壊してしまったおもちゃの代わりになる物を買ったつもりでした。

でも今振り返ると、あのお母さんが作ってくれたのは、

弁償の方法ではなく、私たち親子がその出来事を終わらせるための場所だったのかもしれません。

被害者にも、加害者にも「終わらせる場所」が必要なのかもしれない

最初は、

「いくら弁償すればいいのか」

という話だと思っていました。

でも、今は少し違うように感じています。

壊された側は、壊れた瞬間に分かっています。

もう完全には元に戻らない。

だから、どこかで諦めるしかありません。

壊した側も分かっています。

どれだけ謝っても、本当の意味では元通りにはできない。

だから、何をすれば十分なのか分からない。

被害者にも、加害者にも、それぞれ違う苦しさがあります。

その間にあるのが、

謝罪だったり。

新品だったり。

修理だったり。

ちょっとしたお願いだったり。

相手の気持ちを想像することだったり。

そういう一つひとつなのだと思います。

私は、弁償には絶対の正解があるとは思いません。

新品を受け取る人もいるでしょう。

金銭で弁償してもらう人もいる。

何も受け取らない人もいる。

それぞれでいいと思います。

ただ、自分が壊した側になったときは、

「このくらいの物だから」

と、こちらで価値を決めないようにしたい。

相手にとって、その物がどんな存在だったのかは分からないからです。

そして自分が壊された側になったときは。

壊れた物そのものは、もう仕方がない。

だからこそ、相手が真剣に謝ってくれているなら、その気持ちまで受け取れる自分でいたいと思っています。

物は、壊れたら元には戻らないことがあります。

でも、人との関係まで必ず壊れるわけではありません。

あの日、娘たちがダイソーで選んだ小さなおもちゃを並べて、また一緒に遊んでいた姿を思い出すと、

私は今でも、そう思います。

編集・案内担当

おもちゃ買取の教科書 編集担当みさき

みさき|おもちゃ買取の教科書 編集担当

おもちゃの「買う前」より、買った後に起きる悩みを中心に調べています。買う・借りる・売る・残すを一つの正解にせず、家庭に合う方法を公式情報や研究も確認しながら考えます。

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※「みさき」は当サイトの記事を案内する編集上のペンネームです。

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